1970年9月23日、米国ヒューストンで9人の女子選手が契約書に署名した。契約金は一人1ドル。この1ドルには、当時の競技団体の認可に頼らず女子だけのプロ大会を開くための、現実的な役割があった。
署名した9人は、のちに「Original 9」と呼ばれる。彼女たちがその日にWTAをつくったわけではない。まず独立大会を成立させ、翌年には大会群へ広げ、3年後に分裂していた選手を一つの組織へまとめた。女子プロテニスの出発点をたどると、華やかな決勝戦より先に、賞金表と契約書が出てくる。
12,500ドルと1,500ドル
テニスがオープン化されてから約2年。1970年の女子選手は、男子に比べて賞金も出場機会も少なかった。ITFは当時の賞金格差を男子対女子で8対1、場合によってはそれ以上だったと説明している。
不満を数字にしたのが、ロサンゼルスで開かれるPacific Southwest大会だった。主催者はジャック・クレーマー。提示された優勝賞金は男子が12,500ドル、女子が1,500ドルで、差は8倍を超えた。
女子選手たちは、この条件を受け入れて大会に出る道を選ばなかった。テニス雑誌『World Tennis』の創刊者であり、プロモーターでもあったグラディス・ヘルドマンが動き、Houston Racquet Clubで女子だけの大会を準備する。既存大会への抗議を、別の大会を実際に開くところまで進めたのである。
もちろん、会場を押さえれば開催できるほど話は簡単ではなかった。当時の米国テニスを統括したUSLTAは、この大会をプロ大会として認可しなかった。ヘルドマンの回想によると、USLTA側はアマチュア大会として開催し、賞金は表に出さずに払う案を示したという。選手たちは拒否した。女子の試合に賞金を出すことを隠してしまえば、問題のある条件を変えるという当初の目的まで曖昧になりかねなかった。
1ドル契約
そこで使われたのが、1ドルのプロ契約だった。
ヘルドマン本人の説明では、当時は「契約プロ」であれば、USLTAの認可がなくても試合を行える扱いだった。彼女は9人を一週間、それぞれ1ドルで契約する形を取り、大会の出場者を契約プロにした。ビリー・ジーン・キングも後年、1ドルであっても契約には拘束力があるという趣旨で、この方法をヘルドマンに提案したと振り返っている。
つまり1ドルは、選手と主催者の契約関係を成立させ、非公認のプロ大会を開くための対価だった。出場料でも、大会で得られる報酬の総額でもない。大会には別に賞金が用意されている。よく知られた1ドル紙幣の写真だけを見ると、この区別は抜け落ちやすい。
回避策がすべてを解決したわけでもなかった。ヘルドマンの回想では、契約から48時間以内に全選手へ資格停止の電報が届き、国別対抗戦には出場できないと通告された。WTAの公式記事も、USLTAと豪州の統括団体から、選手生命を脅かす制裁の警告があったとしている。9人は、既存の大会を一度欠場するだけでは済まない危険を承知で署名したことになる。
ヒューストンの9人
契約書に名を連ねたのは、ビリー・ジーン・キング、ロージー・カザルス、ナンシー・リッチー、ジェーン「ピーチズ」バートコウィッツ、クリスティ・ピジョン、ヴァレリー・ジーゲンフス、ジュリー・ヘルドマン、ケリー・メルビル、ジュディ・テガートの9人だった。最後の2人は豪州出身で、現在の資料では結婚後の姓を加えたケリー・メルビル・リード、ジュディ・テガート・ダルトンという表記も使われる。
同じ9月23日、Houston Racquet ClubでVirginia Slims Invitationalが始まった。賞金総額は7,500ドルである。これは優勝賞金ではない。Virginia SlimsはPhilip Morrisのたばこブランドで、ヘルドマンが同社のジョセフ・カルマン3世に働きかけ、支援を取りつけた。
決勝ではカザルスがテガートを5-7、6-1、7-5で破った。大会は成立した。既存の統括団体が認可しないなか、選手と雑誌編集者、会場、スポンサーが組み、賞金のある女子プロ大会を最後まで行った。この実績が、次の年の展開を可能にする。
1971年のサーキット
ヒューストン大会の成功後、カルマンは支援を広げた。1971年、Virginia Slims Seriesは全米規模のサーキットへ発展する。WTAの基本年表が記す賞金総額は309,100ドル。前年に一大会、総額7,500ドルで始めた試みは、選手が複数の都市を回り、継続して賞金を得る仕組みへ変わった。
同年、キングは女子アスリートとして初めて年間獲得賞金10万ドルを超えた。Pacific Southwest大会で示された女子優勝賞金1,500ドルから見れば、わずか一年で起きた変化は大きい。ただし、女子ツアーが一つにまとまったわけではなかった。Virginia Slims Circuitが発展する一方で、USLTAも対抗する女子ツアーを展開し、選手は別々の陣営に分かれていた。
なお、1971年の大会数はWTAの公式資料でも19大会と21大会の二つの記載がある。集計の違いについて公式な説明は確認できないため、ここでは大会数を一つに決めず、全米規模のサーキットになったという経過にとどめたい。
ロンドンの会合
独立大会を継続できても、選手の意見が割れたままでは、大会主催者や統括団体との交渉力は弱い。キングは女子選手に統一された発言力が必要だと考えた。
1973年6月21日、Wimbledon開幕直前のロンドン。Gloucester Hotelに60人を超える選手が集まった。そこでWomen’s Tennis Associationの設立が決まり、キングが初代会長に選ばれる。副会長にはバージニア・ウェード、会計にはベティ・ストーブらが就いた。
1970年のヒューストンで署名したのは9人だった。1973年のロンドンでは、その輪が60人を超えていた。1ドル契約はWTAそのものではないが、選手が自分たちで大会を成立させ、サーキットを育て、最後に組織を一本化する流れの最初に位置している。
同じ1973年、US Openは四大大会で初めて男女同額賞金を実現し、男女の優勝者にそれぞれ25,000ドルを支払った。四大大会すべての男女同額化は2007年まで待つことになる。それでも、1970年に8倍を超える差を突きつけられた選手たちが、3年後にはツアー組織の設立と四大大会の同額賞金にたどり着いた。
Original 9は2021年、グループとして初めてInternational Tennis Hall of Fameに殿堂入りした。契約書に記された金額は、今も1ドルのままである。9人が残したのは、その契約を使って大会を開き、次の大会が開ける仕組みだった。
情報源: WTA公式史 / WTA「Original 9: Gladys Heldman」 / WTA「WTA honors Original 9 and Gladys Heldman on 55th anniversary of $1 contracts」 / WTA「WTA signals historic 50th anniversary with ‘Just Starting’ campaign」 / International Tennis Hall of Fame「Original 9」 / ITF「The women who changed the sport of tennis forever」 / USTA「Original Nine Spotlight: Billie Jean King」 / US Open「Original Nine Spotlight: Julie Heldman」







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