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日本テニスの系譜 — 佐藤次郎から大坂なおみへ

日本テニスの系譜 — 佐藤次郎から大坂なおみへ コラム
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日本のテニスは、世界の頂に手を伸ばした選手たちのバトンリレーの歴史でもある。戦前の孤高の天才から、日本人初の世界1位へ。その系譜を辿る。

先駆者・佐藤次郎

日本テニスの原点に立つのが佐藤次郎(1908-1934)だ。1933年に世界ランキング3位まで上り詰め、四大大会シングルスでは通算5度のベスト4進出を果たした。この記録は現在も日本人男子の歴代最多であり、全豪・全仏・ウィンブルドンでベスト4に進んだ最後の日本人男子でもある。1933年の全仏では、のちに世界王者となるフレッド・ペリーを破る金星も挙げた。しかし佐藤は1934年、遠征の途上で26歳の若さでこの世を去った。その名は、日本テニス史の起点として今も語り継がれている。

伊達公子が開いた扉

伊達公子は、佐藤以来途絶えていた「世界と戦う日本人」の系譜を女子でよみがえらせた。ボールを早いタイミングで捉えるライジングを武器に、1995年には当時の日本人女子最高位となる世界4位に到達。全豪(1994年)・全仏(1995年)・ウィンブルドン(1996年)でベスト4に進み、グラフやナブラチロワら世界の頂点にいた選手たちを幾度も苦しめた。1996年に一度は現役を退いたが、2008年に37歳で復帰し、40代まで第一線でプレーを続けた姿は多くの人を勇気づけた。

男子の壁を破った松岡修造、ダブルスの女王・杉山愛

同じ1995年、男子では松岡修造がウィンブルドンでベスト8に進出した。日本人男子として、実に1933年の佐藤次郎以来62年ぶりの四大大会ベスト8だった。準々決勝では当時最強のピート・サンプラスと対戦し、第1セットのタイブレークを奪う健闘を見せた。

そして杉山愛は、ダブルスで世界の頂点に立った。2000年に日本人として初めてWTAダブルス世界ランキング1位に到達し、女子ダブルスで3度の四大大会優勝を果たしている。四大大会シングルスの連続出場62回は女子歴代最多記録として知られ、その稀有な継続力は日本テニスの底力を象徴した。

錦織圭 — アジア男子初の四大大会決勝

先人たちが伸ばしてきたバトンを、次の高みへ運んだのが錦織圭だ。2014年の全米オープンで、アジア男子として初めて四大大会シングルスの決勝に進出。翌2015年には自己最高の世界4位に到達した。BIG3が君臨する最も過酷な時代にあって、その決勝進出は日本の男子テニスが世界のトップと肩を並べた瞬間だった。

大坂なおみ — 日本人初の世界1位

そして大坂なおみが、ついに頂点に立った。2018年の全米オープンで四大大会初優勝を飾ると、2019年には日本人・アジア人として史上初めて世界ランキング1位に到達。四大大会シングルスを4度制し、コート内外で世界的なアイコンとなった。佐藤次郎が見上げた世界の頂に、日本の選手が立った瞬間だった。

そして、いまへ — 錦織・大坂に続く世代

先人たちが渡してきたバトンは、いまも受け継がれている。男子では、左利きの西岡良仁が2023年、全豪オープンと全仏オープンで2大会連続の四大大会ベスト16に進出した。四大大会シングルスで16強に入った日本人男子は、錦織以来のことだった。同年6月には自己最高の世界24位に到達している。さらに2026年のウィンブルドンでは望月慎太郎がベスト16に食い込み、195cmの長身を武器とする坂本怜ら次世代も背中を追う。

女子でも、大坂に続く新たな個性が育っている。世界トップ10の壁を破った内島萌夏、そして「へにょへにょテニス」で世界を驚かせる伊藤あおい——スタイルは違えど、いずれも「世界と戦う日本人」の系譜に連なる存在だ。

系譜は続く

戦前の佐藤次郎から大坂なおみ、そして現役の若い世代まで、日本テニスは一人ひとりが次の世代へ可能性のバトンを渡すことで前進してきた。佐藤次郎が見上げた世界の頂に、日本のテニスは幾度も手をかけてきた。その物語は、これからも続いていく。

※本記事に記載した記録・順位は2026年7月時点のものです。

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