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1993年ハンブルク|モニカ・セレス刺傷事件と、女子テニスが失った27か月

1993年のモニカ・セレス刺傷事件を扱ったコラムのアイキャッチ コラム
Photo by madmarlin_ / CC BY 2.0, via Wikimedia Commons
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10代のうちに四大大会を8回勝った選手は、オープン化以降モニカ・セレスしかいない。その記録が止まったのは、引退でも故障でもない。観客席から伸びてきた一本のナイフだった。

10代でグランドスラム8勝

1990年の全仏オープンを16歳で制してから、1993年1月の全豪オープンまで。この間にセレスが出場した四大大会は9回で、そのうち8回優勝している。落としたのは1992年のウィンブルドン決勝の一度だけだった。

打ち方は当時としてはかなり変わっていた。フォアもバックも両手打ち。ベースラインのすぐ内側に立って、バウンドの上がりぎわを叩く。打つたびに大きな声が出るので、うるさいという苦情も出ていたらしい。決勝で破った相手にはマルティナ・ナブラチロワ(1991年全米)もいる。

ここで一つ、よく混同される点を整理しておきたい。セレスが四大大会の決勝でシュテフィ・グラフと当たったのは4回で、うち3回勝っている。1990年全仏、1992年全仏、1993年全豪。グラフが勝ったのが1992年ウィンブルドンで、これがセレスの唯一の決勝敗退だった。全米の決勝で二人が当たるのは、事件のあと、1995年と1996年になってからだ。

1993年全豪の決勝が、事件前の最後の一戦になった。

ハンブルクのコートチェンジ

1993年4月30日、ハンブルクで開かれていたシチズン・カップの準々決勝。相手はブルガリアのマグダレナ・マレーバ。コートチェンジでベンチに座っていたセレスの背中に、最前列にいた男が柵から身を乗り出してナイフを突き立てた。

刃は肩甲骨の間に1.3センチ入った。凶器は刃渡り9インチ、約23センチの骨スキ包丁だったと報じられている。セレスが直前に前かがみになっていなければ、もっと深く入っていた可能性が高いという指摘もある。

刺したのは当時38歳の東ドイツ出身の男、ギュンター・パルシェ。グラフの熱狂的なファンで、セレスを負傷させればグラフが世界1位に戻ると考えた、と動機を述べている。殺すつもりはなかった、とも主張した。

同じ年の10月、ドイツの裁判所はパルシェに傷害の有罪判決を出した。ただし量刑は執行猶予2年。検察の申し立てで開かれた1995年の再審でも、猶予付きの判決は維持された。彼は結局、一日も服役していない。

傷そのものは数週間でふさがっている。セレスがツアーに戻るまでにかかったのは、27か月あまりだった。

ランキングをめぐる投票

セレスが不在の間、彼女の世界ランキングをどう扱うかがツアーの議題になった。1993年、ローマの大会に合わせて上位選手による投票が行われている。ポイントを凍結する案に、17人中16人が反対した。賛成した選手はいない。ガブリエラ・サバティーニだけが棄権した。

反対した選手それぞれが理由を公にしたわけではないので、動機を決めつけるのはやめておく。当時の選手会組織で会長を務めていたパム・シュライバーは後年、それまでランキングを人為的に動かした前例がなかったこと、前例のない事件に対しては別の考え方が必要だったことを振り返っている。

セレスは1位の座を失い、1993年6月にグラフが返り咲いた。

ただし、この話には続きがある。1995年の復帰にあたって、WTAは理事会の判断でセレスをグラフと並ぶ共同1位として扱った。選手投票では通らなかったものが、2年後に別のルートで通ったことになる。ただしセレスが取り戻せたのは順位だけだった。

27か月後の復帰

1995年8月、セレスはカナダ・オープンで復帰し、そのまま優勝した。決勝の相手はアマンダ・クッツァー。翌月の全米オープンでは決勝まで勝ち上がり、グラフに敗れている。

1996年1月、全豪オープンの決勝でアンケ・フーバーを破り、通算9個目の四大大会タイトルを取った。復帰後に取れたのは、結果的にこれ一つだけだった。

その後のセレスは十分に強い選手であり続けた。1998年の全仏では決勝に進んでいる。ただ、1993年以前の水準には戻らなかった。本人は後年、刺傷事件や1998年に父カロイをがんで亡くしたことなどが重なるなかで過食症(むちゃ食い障害)を抱え、長いあいだ誰にも言えずにいたと明かしている。

数えられない部分

あの日ベンチの後ろに警備員が一人立っていたら、セレスは何勝したのか。この問いに答えはない。19歳で8勝していた選手が27か月を失った、という事実が残るだけだ。

参考までに数字を一つ。グラフの四大大会22勝のうち6勝は、セレスが不在だった27か月の間に挙がっている。グラフが弱かったという話ではまったくない。ただ、その6回の決勝にセレスがいたらどうなっていたかは、誰にも分からないままになった。

テニスの試合は、選手が同じ条件で戦うことを前提に成り立っている。1993年4月30日にハンブルクで壊れたのは、その前提のほうだった。選手の警護は事件のあとで変わった。セレスの27か月は変わらない。

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